地方公務員の日常

時間はあるが、夢がない。苦悩の日々の記録。

有意義なことって何だろう

社会様からお声がかかるまで、静かにその時を待っている。

 

人生は有限であって、時間は有限だ。

 

社会人になるまでの時間をどのように消費するべきか考えているが、なかなか納得のいく答えは出ない。

 

卒業旅行と称して、国内や海外を旅する友人は多い。それが普通だ。

 

一方、家でテレビゲームをしていると、そんなものは時間の無駄だ、と言われる。

 

私の両親は、ゲームは何の価値も生まない、この世で最も無意味なものであると言い続けてきた。

 

勉強や部活が最も時間を有意義に使うことのできるものであると。

 

「そういうものだ。」という自己暗示をかけてきた。親の言うことは完全に正しいと、何の疑いも疑問も感じないで、これまで生きてきた。

 

それが幼い私が肌で感じ取った、最も快適に、平穏に生きていく術だった。

 

自分よりも何十年も人生経験豊富な両親の言葉は、ほとんど正解に近いものなんだろうが、どうもそれだけではダメらしい、というのが最近分かってきた。

 

少しづつでも、自身の内側に耳を向けて、自らの声を探し出す。これがやはり重要なようである。

 

自我の目覚めを抑制され続けてきた自分を認めて、少しづつでも自己の輪郭を作っていく必要がある。

 

ゲームが無駄で、勉強は有意義であるという考え方の土台には、それが自己成長に寄与するか否かというのがあるように思う。

 

すると、自己成長とは何か、という問いにぶつかる。人生は死ぬまで自己成長をし続けなくてはならないのだろうか。

 

思い返すと、私は自分の意思とは関係のない次元で、成長してきた。自分のやりたいようにやっていたら、成長できない人間だった。ゲームばかりしていて。

 

親が強制的に勉強をさせていなければ、大学4年生の自分はいない。とにかく、「そういうものだ。」と考えて成長してきた。

 

他者によって育てられることは、自己成長という言葉に含まれるのだろうか。他者成長?となるのだろうか。

 

辞書にはこうある。

 

自己成長

”自分で努力して、成長していくこと。自ら促して成長していくこと。”

 

この定義からいくと、今までやってきた受験勉強とか、そういうものは自己成長ではない。自己成長でないのなら、有意義でないということになる、、

 

じゃあ有意義って何なんだ。

 

金稼ぐことが意義であり、価値ということなら全ての辻褄が合うか?

 

そうしたら自己成長なんて虚像で、金を稼ぐことだけが意義であり、どうしたら金を稼げるのか他者に言われたことを”自ら促して””自分で努力して”やっていくしかないということだろうか。

 

誰かが考えた有意義なものに時間を費やし、誰かが決めた幸せを享受し、「まぁ、そういうものだ。」と思いながら死んでいくんでしょうか。

 

何のために生きているんだろう。

 

正直、ゲームをやることにも虚無感を感じている。なんの意味があるのだろう、と最近は感じている。同時に、彼女と過ごしたり、旅行に行ったり、スノーボードをしている時も、何のためにやっているのかわからなくなる。

 

というか、無駄な気がしてしまう。何をやっても結局は自己満足であり、死んでしまえば全て失う。

 

ほとんどのことに意味がなくなってしまった。

 

「そういうものだ。」と諦めて、働いて働いて、何とかして生き続けるだけか。

 

金を稼いで、生きているということだけが揺るぎない意義なのだろうか。